この本読みました。
かなり好きな部類ですが、それなりに難解でした。
記憶に定着化させたいので、備忘録もかねて要約してみました。
概要
タイトルにもある通りくそどうでもいい仕事に関して、以下の問について論考しています。
- ブルシットジョブとは何か?
- ブルシットジョブはどんな影響があるのか?
- ブルシットジョブはなぜ生まれ、量産されるのか?
- ブルシットジョブの増大に対してなぜ反対しないのか?
- この状況に対しての解決策は?
ブルシットジョブとは何か?
一言で言うと「なくてもよくないか?」と考えられるような仕事です。
対比されるのは、看護師、教育者、清掃員など実際に誰かに貢献している仕事です。
なんとなく想像されている通り、ブルシットジョブのほとんどはホワイトカラーの仕事です。
ブルシットジョブは以下の5つに分類されます。(※本書抜粋)
- 取り巻き(フランキー)
→誰かを偉そうにみせたり、だれかに偉そうな気分を味あわせるという、ただそれだけのために存在している仕事 - 脅し屋(グーン)
→他人を操ろうとしたり、脅しをかけるような仕事(ギャングなどではなく、企業弁護士など) - 尻ぬぐい(ダクト・テーパー)
→存在してはならない問題を解決するための仕事(例えばシステム上の欠損を修復する仕事など) - 書類穴埋め人(ボックス・スティッカー)
→ある組織が実際にはやっていないことをやっていると主張できるようにすることが仕事(目的達成になんら寄与しない書類仕事など) - タスクマスター
→タスクを振り分ける仕事(仲介不要の場合に限ってブルシットジョブ)
→ブルシットジョブを形成する仕事
また、ブルシットジョブは非ブルシットジョブに比べて給与が高いことが特徴です。
非ブルシットジョブ(看護師など)は社会的価値があり、それを果たすことによってやりがいが生まれる。
やりがいが報酬なんだから、経済的な報酬は低く抑えてもよいよね?という感じです。
何ともまぁ・・・というような論理です。
ブルシットジョブはどんな影響があるのか?
ブルシットジョブは人間の精神をむしばみます。
「自分の行動が何かに影響を与えること」に人は根源的な喜びを感じます。
しかし、ブルシットジョブは喜びを感じる部分を根こそぎ取り上げ、つらい部分だけ残して、自己犠牲を要求します。
その結果として、精神をむしばみます。
ブルシットジョブはなぜ生まれ、量産されるのか?
ブルシットジョブはなくていい仕事です。
営利企業はコスト削減の文脈でリストラ実施するのに、なぜこんな無駄な仕事が生まれ得るのか?
ブルシットジョブの存在によって利潤を獲得できるからです。では、利潤をいかにして獲得するか?
わざと仕事を遅らせる、わざと無駄な仕事を作るというような詐欺的な行いによって獲得されます。
もしくは、骨の髄までしゃぶりつくすためには、ブルシットジョブが必要という考え方もできますね。
ブルシットジョブの増大に対してなぜ反対しないのか?
ブルシットジョブは誰が見ても無駄な仕事であり、その仕事に従事する人の精神をむしばみます。
百害あって一利なし、しかも増大を続けている。
にも関わらず、それを抑制する動きは見られない。
なぜなら、「仕事」はつらく、自己犠牲を伴ってしかるべきだという宗教観(贖罪を果たすための仕事)があるから。
仕事はつらくて当たり前、むしろ、つらくあるべき。
であるなら、ブルシットジョブはうってつけ。
この状況に対しての解決策は?
著者はあくまで、特定の解決策を提示するよりも、ほとんどの人がその存在に気づきさえしなかった問題にスポットライトを当てることが本書の価値という断りを入れたうえで、
仕事と報酬を切り離してこのジレンマを終結させるための一案としてはベーシックインカムが良いのではないかという結論を導いています。
先に全体的な感想
みんながうすうす勘づいていたけど、誰も触ってこなかった問題を取り上げているという観点で価値のある一冊です。
一方、著者も認めている通り定量的なファクトは少なく、仮説の域を出ないですが、納得感はあります。
個人的な好みでいえば、論拠を歴史や文化というところに置いているところが、社会の真実に迫っている感じ(あくあまで感覚)がして好意的です。
特に第六章(無意味な労働の増大に対してなぜ反対しないのか?)の備忘録
第六章の「無意味な労働の増大に対してなぜ反対しないか?」が特に興味深かったので、詳述します。
あらかじめ断っておきますが、以下は私の理解です。
違和感のあるところも多々あるかと思いますが、ご了承ください。
なぜ反対しないのか?
こんな感じでまとめてみました。
ブルシットジョブの読書録 by kofa
ブルシットジョブの増大に対してなぜ反対しないのか?に対しての著者なりの答えが論考されています。
結論から言えば、3つの要因があると考えられます。
- (ブルシットジョブを生み出すシステムかどうかに関わらず)既存のシステムを維持したいという根源的な欲求が人間にはある
- ブルシットジョブを生む社会システム(資本主義)それ自体を私たちは認めていること
- ブルシットジョブであったとしてもキリスト教の教義を実践するための世俗的苦行として私たちは受け入れていること
※私たち=アメリカ人
既存のシステムを維持したいという根源的な欲求
本書では、以下のような記述があります。
もしいまある世界が好きではないとしても、生産的かどうかにかかわらず、私たちのほとんどの行為の意識された目的が、他者ーたいていは具体的な他者ーを思いやることにあることには変わりない。
ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論
20年後もなお大学がーさらに言えばお金がーあると確信していなければ、自分の子供に大学教育を受けさせることすら心もとなくなる。逆に言えば、他者ー人間、動物、風景などーへの愛は、たいてい、みずからが嫌悪しているかもしれない制度的構造が保守されることを必要としているのである。
ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論
長期的な思いやりというのは、実は既存システムが維持されることを前提としている。
よって、ブルシットジョブを生み出す現代社会の制度的構造を根本的変えたいというモチベーションは抑制されるという理解です。
ブルシットジョブを生む社会システムを認めている
19世紀の終わりころ、労働こそが富を生むという労働価値説が労働者の一般常識としてあり、それが巨大資本家との対立を生んでいた。
巨大資本家に労働価値説は邪魔だったので、労働価値説を否定すキャンペーンを実施し、成功を収めブルシットジョブを量産する近代の資本主義に移行した。
ちなみに、労働価値説否定キャンペーンの成功要因は議論を工場生産に限定すること。
労働価値説の欠陥に付け込むことで議論を工場生産に限定することに成功。
工場生産に限定すると何が嬉しいかというと、工場生産は機械とそれを操作する人が重要という結論を生み、その結論は人間を機械とみなすことを容易にするからである。
「機会+それを操作する人間」を、まるっと機械とみなすことができれば、機械は資本が源泉なわけで、資本が富を生み出すという考え方は資本家にとっても、労働者にとっても浸透しやすいものになりました。
よってもって、労働が価値を生み出すという労働価値説を否定し、資本が富を生み出すという考え方が浸透するに至った。
そして、資本主義が爆誕した。
キリスト教の教義を実践するための世俗的苦行として受け入れている
ブルシットジョブだって無駄かもしれないけど立派な「仕事」です。(少なくとも利益は生んでいる、詐欺師的な方法で・・・)
仕事は罰であると同時に贖罪であるという、キリスト教の教義がブルシットジョブという「仕事」を個人の救済手段として正当化します。
というのが大筋の考え方です。
ただ、私はキリスト教じゃないよ、とか、無宗教だよとか言う人もいるかと思います。
その人たちに対して、あなたはキリスト教の教義に則って、ブルシットジョブをするべきですとか言ってもなんら説得力はありませんね。
ブルシットジョブの正当化をもう少し現代語に直すと
- (ブルシットジョブだったとしても)失業すると食い扶持がなくなるだけでなく、自己を尊重することができなくなる
- 「ところで、あなたのご職業は?」という質問で、他人を仕事ではかろうとする
この言葉の根源にあるのは、仕事それ自体に価値があるという考え方です。
そして、その考え方を生み出したのは仕事は罰であると同時に贖罪であるという、キリスト教の教義なのでした。
興味深い小論3選
ここでは第六章の中で特に興味深かったものについて詳細に解説していきます。
興味深い小論① 家父長制バイアスとそれがもたらす帰結
ブルシットジョブの読書録 by kofa
歴史的に(生産的な)労働というのは男性が担う労働と考えられていた、故に労働について議論する際にはおのずと、「男性の労働」を議論する。
ちなみに、こういった偏った見方をすることを学術的にはバイアスと呼び、家父長制という考え方に基づくので家父長制バイアスと呼びます。
ところで、「労働が富の源泉(労働価値説)vs 資本が富の源泉」の議論は工場生産に限定されたという話がありました。
なぜ工場生産に限定できたか?答えは家父長制バイアス。
労働階級の労働は工場生産以外にもたくさんありました。
しかし工場生産は男の仕事で、それ以外が女性の仕事でした。
家父長制バイアスが発生すると、女性が担っている仕事は労働として認められなくなります。
労働者階級の実態の労働(男性と女性の労働)と、「労働が富の源泉(労働価値説)vs資本が富の源泉」の議論で取り上げる労働(男性の労働)には大きな乖離が生まれます。
そして、その乖離は「資本が富の源泉」側に有利に働き、労働価値説は敗退したというのが、本書の論考です。
お見事。(著者に対して)
興味深い小論② 科学技術の発展とそれがもたらした帰結
ブルシットジョブの読書録 by kofa
「男性の労働は工場生産」という話がありましたが、もともとは工場生産は女性の仕事でした。
しかし、科学技術の発展で生産技術にイノベーションが起き、男性は失業しました。
その後、資本家と労働者の闘争が起きましたが、工場生産の仕事を男性にあてがうという妥協点を見出して、終結しました。
最終的には資本家にその実態に付け込まれて資本主義が勃興した。
この科学技術の発展が失業が生むという話は現代でも起きていますが、それは短期的な視点で、直接的な帰結のお話。
失業者はどこかに流れていって、新たな何らかの集団を形成し、そこに付け込んだ頭のいい人たちは、新しい社会制度を作ったという論理になっています。
科学技術の発展の意味を、社会制度という観点でとらえることもできるんですね。
いやはや、勉強になります。
興味深い小論③ 思いやりがあるが故にもたらされた帰結
ブルシットジョブの読書録 by kofa
ブルシットジョブを維持継続することなんて、誰も望んでいない。
ブルシットなジョブをなくして、その資源をブルシットではないジョブに移転すべき(例えば教育者の給料を上げるとか)
と私たちは心底思っているにも関わらず、それができない。
なぜならば、資本主義システムは私たちが「思いやり」から生まれる行動を内包してしまっているから。
子に対しての思いやりは例えば、「大学に進学させる」、「そのために資金をためる」という行動として現れます。
そしてその行動の前提になっているのは、現在の大学制度、貨幣制度です。
そしてその上部構造には資本主義がある。資本主義にぶら下がっている。
それを壊してしまっては、子に対しての思いやりが果たせないではないか。
もはや呪いですね。
感想(二回目)
内容から考える今後の生き方
ブルシットジョブはもう手の施しようがないほどにこの社会に蔓延してしまっていて、処方箋はあるの無いのかもわからず、かつ、この状態を政治は認め、政治ツールとして活用すらしている。
そんな中で、個人としてブルシットではないジョブに転職という選択肢もありますが、ブルシットではないジョブはもれなく経済的に厳しい生活が待っています。
温室で育った私なんぞがその選択は取れません。(少なくともブルシットジョブで資産形成するまでは)
暗くなるしかない状態なわけですが、スキルを売っている人たちは逃げ道があるのではないかと思います。
例えばデータ分析の仕事というのは、それ自体がブルシットではなくて、分析目的に依存します。
代表例としてはマーケティング分析はブルシットな可能性が高いです。(あくまで可能性)
売れない商品・サービスをマーケティングで売れるようにするという文脈でいえば、理解しやすいですよね。
稼ぐこと、スキルを磨くことはブルシットジョブ、社会に還元する仕事は副業、というような消極的な選択肢はあるかなと思います。
お金も稼ぎながら、社会にも貢献するというのは難易度が非常に高いので、分けて考えようということですね。
論理展開からから考える普遍的仮説
論理展開を好き嫌いで語っていいものなのかはさておき、
とある欲望、とある偏見、とある倫理観、とある科学技術、そういった、わりと根源的で変化させがたい要素があって、
その要素を織り込まれた結論(たとえば社会システム)は丈夫で壊れにくい、ということが言えそうです。
社会制度、文化、システムなどそこに住んでいる人々の行動を規定するようなものって、原則的に転覆可能なはずです。革命とかよく起きてますもんね。
いつの時代にも、そういったシステムに対しての批判や反対する気持ちはみんな持っているはず。
そして、各システムの寿命には短い・長いという過去の結果がありますよね。
なんとなく、以下のような仮説が生まれてくる気がします。
- システムが人間の根源的な欲求、倫理を包含することによって反対や批判を緩和しているのではないか?
- また、その包含の度合いが寿命を決めているのではないか?
何てことを考えさせてくれる本だったので、私はこの本が好きです。
おわりに
要約は正直しんどかったです。
要約をめっちゃやっている人ってめちゃめちゃすごいなと思いました。
今回みたいに優れた本に出合えたら、またやろうかなと思います。
読書でキャリアを切り開こう!
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